デューラーとは|版画で世界を変えた北方ルネサンスの“万能の天才”

版画一枚に、これほどの線を刻めるのか

細い線が、無数に、しかも寸分の狂いもなく刻まれている。うさぎの毛の一本一本、老人の肌のしわ、金属の鎧の照り返し——アルブレヒト・デューラーの版画を初めてじっくり見たとき、多くの人が息をのみます。これが手で彫られたものだとは、にわかに信じがたいからです。

筆者は毎日、鉛筆画を描いています。鉛筆画では、硬さの違う鉛筆を使い分け、線を重ねることで、質感や立体感を出していきます。ですから「線を重ねてものを立ち上げる」という仕事の途方もなさは、少しは想像がつくつもりです。デューラーがやったのは、それを木や銅の板の上で、彫刻刀と鋭い針でやってのけることでした。しかも彼は、ただ手が動く職人ではありませんでした。この記事では、北方ルネサンスが生んだ「万能の天才」の姿を、実物を観る前の予習としてまとめます。

アルブレヒト・デューラーとは(基本情報)

  • 生没年:1471〜1528年(ドイツ・ニュルンベルク出身)
  • 位置づけ:北方ルネサンスを代表する画家・版画家・理論家
  • 得意:木版画・銅版画(エングレーヴィング)、油彩、水彩
  • 代表作:《自画像》《メランコリアI》《四人の使徒》《野うさぎ》など

デューラーは金細工師の子として生まれ、緻密な手仕事を間近に見て育ちました。若い頃にイタリアへ旅し、ルネサンスの遠近法や人体表現を学びます。北方の緻密な観察眼と、イタリアの理論的な造形——この二つを一身に統合したところに、デューラーの特別さがあります。

見どころ

1. 版画——「複製できる芸術」の発明

デューラーの最大の功績は、版画を芸術の高みへ引き上げたことです。それまで版画は、本の挿絵など補助的な役割でした。デューラーはそこに、油彩画に匹敵する表現力を持ち込みます。しかも版画は刷れば何枚もできる。つまり彼の作品は、ヨーロッパ中に広まりました。一点物の絵画と違い、複製によって名声が国境を越える——デューラーは、印刷術の時代をいち早く味方につけた画家でもありました。技術と時代を読む力があったのです。

2. 《自画像》——画家の地位を宣言する

デューラーは、自画像を繰り返し描いた最初期の画家の一人です。とりわけ有名なのが、28歳ごろに描いた正面向きの《自画像》。左右対称の厳格な構図で、まっすぐこちらを見つめています。この正面向きの構図は、当時キリスト像に用いられる特別な形式でした。それを自らに用いたことは、たいへん大胆な自己主張です。画家は職人ではなく、創造する者だ——デューラーは、絵を通じて画家という存在の地位そのものを引き上げようとしました。

3. 《メランコリアI》——解けない謎を刻む

翼を持つ人物が、頬杖をついて物思いに沈んでいる。まわりには、コンパス、天秤、砂時計、多面体、数字を並べた魔方陣。デューラーの銅版画《メランコリアI》は、美術史上もっとも解釈をめぐって議論されてきた作品の一つです。学問や技術の道具に囲まれながら、なぜこの人物は沈み込んでいるのか。知は人を幸福にするのか、それとも限界を突きつけるのか——謎は今も決着していません。答えを与えず、問いを刻む。この一枚には、そんな知的な深みがあります。

“万能の天才”——描くだけでなく、理論を書いた人

デューラーがただの名手でないのは、絵を描くにとどまらず、理論書を著したところです。晩年、彼は遠近法や幾何学の解説書、人体比例の研究書を執筆しました。つまり、自分の技を感覚のまま抱え込まず、体系化して後世に伝えようとしたのです。

筆者はもともと、一つの分野に秀でた人よりも、複数の分野で結果を残す「万能の天才」型の人物に強く惹かれます。絵画と科学のレオナルド・ダ・ヴィンチ、密教と書の空海。デューラーもまさにその系譜で、画家・版画家であると同時に、数学と観察の人でした。実際、彼はダ・ヴィンチとほぼ同時代を生き、アルプスの北と南で、それぞれ「芸術と科学の統合」を目指していたことになります。並べてみると、ルネサンスという時代の輪郭がくっきりしてきます。

日本との思わぬ縁——岸田劉生が敬愛した画家

意外なところに、デューラーの影響は届いています。近代日本洋画の岸田劉生は、デューラーら北方ルネサンスの画家を深く敬愛しました。対象を執拗なまでに見つめ、細部まで描き切る——《麗子像》のあの独特の緻密さの背後には、デューラーへの憧れがあったのです。ドイツの版画家と、大正の日本の画家が、「徹底して見る」という一点でつながっている。美術史を学んでいると、こういう思わぬ糸が見つかるのが楽しいところです。

美術史・美術検定での位置づけ

デューラーは、北方ルネサンスを代表する画家として、美術検定でも西洋美術史の重要人物です。「北方ルネサンス」「版画(木版・銅版)」「《メランコリアI》」「自画像」といったキーワードは押さえておきたいところ。イタリア・ルネサンスが油彩の大画面で理想美を追ったのに対し、北方は緻密な観察と版画で独自の道を進んだ——この対比を知ると、ルネサンスという時代が立体的に見えてきます。

実物を観るには

デューラーの油彩の代表作は、ドイツのミュンヘンのアルテ・ピナコテークや、スペインのプラド美術館などにあります。一方で版画は、複数が刷られた性質上、世界各地の美術館が所蔵しており、日本でも版画コレクションを持つ館や、ドイツ美術・西洋版画をテーマにした展覧会で出会える機会があります。

そして版画こそ、実物を観る意味がとりわけ大きい作品です。図版では潰れてしまう線の一本一本が、実物では驚くほど鮮明に見えます。あの緻密さは、目の前で見てはじめて凄みが分かります。観に行く前に、各館の展示予定を確認しておくと確実です。

学びの記録を残すと、次につながる

実物を観るのはもちろん、「この画家について何を知ったか」を記録しておくことも、立派な美術体験の蓄積です。観た作品や、これから観たい作品を書き留めておくと、学びが一本の線でつながっていきます。

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