《松林図屏風》——“描かない”ことで、霧を描く
霧のなかに、松の木立がぼうっと浮かんでは消えていく。長谷川等伯(はせがわ とうはく)の国宝《松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)》は、日本の水墨画の最高峰のひとつとされ、観る者を静かな朝の松原へ連れていってくれます。ところがこの絵、じっくり見ると、画面の多くが「何も描かれていない余白」でできています。
筆者は毎日、趣味で鉛筆画を描いています。絵を描くようになって強く感じるのは、「描くこと」と同じくらい「描かずに残すこと」が難しい、ということです。西洋美術も好きですが、日本美術のこうした静けさや”間(ま)”には、日本人としてどこか深く落ち着くものがあります。この記事では、《松林図屏風》の魅力を、その「余白」という切り口から、実物を観る前の予習としてまとめます。
長谷川等伯と《松林図屏風》の基本情報
- 作者:長谷川等伯(1539〜1610、安土桃山時代。能登・七尾の出身で京都で活躍)
- 形式:六曲一双(六つ折りの屏風が左右一対)
- 技法:紙本墨画(紙に墨だけで描く水墨画)
- 指定・所蔵:国宝/東京国立博物館
- 主題:霧に包まれた松林
等伯は、狩野永徳ら狩野派が画壇を支配した時代に、独自の道を切り拓いて「長谷川派」を興した絵師です。金や色を使った豪華な障壁画も手がける一方で、この《松林図屏風》のような、墨一色の静謐な世界も極めました。
描く視点で観る、余白と間の美
1. 描かない空間が、霧になる
この絵の主役は、じつは「描かれていない部分」です。松と松のあいだの白い余白が、そのまま立ちこめる霧や、湿った空気、朝の光になる。鉛筆画でも、いちばん明るいところは「塗らずに紙の白を残す」ことで表現します。塗って白くするのではなく、あえて手を止めて残す。その引き算の勇気が、《松林図屏風》では画面いっぱいに効いています。
2. 自由な筆致——にじみとかすれ
松の幹や葉は、濃い墨から薄い墨まで、にじみ(ぼかし)とかすれ(かすった線)を自在に使って描かれています。きっちり輪郭を取るのではなく、勢いのある筆づかいで、遠くの松はより淡く、手前はより濃く。この墨の濃淡だけで、奥行きと空気の湿り気までが立ち上がってきます。下絵のような自由さがある、といわれるのも納得です。
3. 金の時代に、あえての水墨
《松林図屏風》が生まれた桃山時代は、城や寺を金色に輝く豪華絢爛な障壁画が飾った、いわば「足し算」の時代でした。そのただ中で、等伯は墨一色の「引き算」の世界を選びました。華やかさを競う時代に、静けさで勝負する——この選択そのものが、等伯という絵師の懐の深さを物語っています。
哀しみが宿る、という説
《松林図屏風》には、等伯が深く愛した息子・久蔵(きゅうぞう)を若くして亡くした悲しみが投影されている、という見方もあります(諸説あります)。確かなことは分かりませんが、そう聞いてから霧の松原を眺めると、静けさの奥に、ふと寂しさのようなものが感じられてくる。背景の物語を知ると、一枚の絵の受け取り方が変わる好例です。
美術史・美術検定での位置づけ
長谷川等伯は、狩野永徳と並ぶ桃山時代の代表的な絵師で、美術検定でも日本美術史の重要人物として登場します。とくに《松林図屏風》は、日本水墨画の到達点として、また中国・宋元の水墨(牧谿など)の影響を受けつつ独自の境地に至った作品として押さえておきたい一双です。金碧障壁画(智積院の《楓図》など)と水墨の両方を極めた、その振れ幅も等伯の凄みです。
もう一つの顔——智積院の金碧障壁画
《松林図屏風》の静けさとは対照的に、京都・智積院に伝わる等伯一門の《楓図》は、金地に大きな楓を描いた豪華絢爛な障壁画です。等伯が《楓図》を、そして若くして亡くなった息子・久蔵が《桜図》を手がけたとされ、親子の競演としても知られます。墨一色の余白の美と、金と色彩の華やかさ。その両極を自在に行き来できたところに、等伯という絵師の底知れなさがあります。
実物はどこで観られる?
《松林図屏風》は東京国立博物館が所蔵する国宝で、折々、とくに新年の時期などに公開されることがあります。国宝ゆえ常設ではなく、公開期間が限られるので、観に行く前に東京国立博物館の展示情報を確認しておくと確実です。実物の前に立つと、あの余白が生む空気感は、図版とはまるで違って迫ってきます。
観た記録を残すと、記憶はもっと鮮明になる
日本美術の名作は、実物の前に立つと、墨の濃淡や余白の空気が、写真とはまったく違って感じられます。そうして心が動いた瞬間を記録に残しておくと、後から驚くほど鮮明に思い出せます。「いつ・どこで・どの作品を、どう感じたか」を残しておくと、学びも思い出も積み重なっていきます。
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