パイプの絵に「これはパイプではない」と書いた画家
丁寧に描かれた一本のパイプ。その下に、几帳面な筆記体でこう記されています——「これはパイプではない」。ルネ・マグリットの《イメージの裏切り》は、見た人を一瞬で混乱させます。どう見てもパイプなのに、なぜ違うと言うのか。ふざけているのか、なぞなぞなのか。
けれど答えは、拍子抜けするほど筋が通っています。これはパイプそのものではなく、パイプの絵だからです。実際、この絵からタバコを吸うことはできません。当たり前すぎて誰も意識しないその事実を、マグリットは一枚の絵で突きつけました。
筆者が美術を学び直していて、いちばん面白いと感じるのは、こういう作品です。技巧の巧みさよりも、既存の常識や概念そのものに疑問を投げかけ、見る側の世界の捉え方を変えてしまう作品。マグリットは、まさにそれを静かにやってのけた画家でした。この記事では、その仕掛けを、実物を観る前の予習として読み解いてみます。
ルネ・マグリットとは(基本情報)
- 生没年:1898〜1967年(ベルギー出身)
- 位置づけ:シュルレアリスム(超現実主義)を代表する画家
- 画風:写実的な描写で、ありえない組み合わせを描く
- 代表作:《イメージの裏切り》《光の帝国》《人の子》《ピレネーの城》など
マグリットは、広告のデザインなどを手がけながら画業を続けた人で、生涯を通じて、山高帽にコートという地味な紳士のような風貌でした。奇矯なふるまいで知られた同時代のシュルレアリストたちとは対照的に、市民的で穏やかな暮らしを送っています。派手なのは絵の中身だけ——そのギャップも、マグリットらしいところです。
見どころ
1. 《イメージの裏切り》——絵と言葉と、ものの関係
先ほどのパイプの絵です。ここでマグリットが揺さぶっているのは、「絵はものの代わりである」という私たちの思い込みです。私たちは絵を見て、つい「これはパイプだ」と口にします。けれど厳密には、それはパイプを表すイメージにすぎません。ものと、その絵と、それを指す言葉。この三つは、じつは別々のものです。ふだんベタッと重なって見えているその関係を、マグリットは丁寧にはがしてみせました。
2. 日常のものを、ずらして組み合わせる
マグリットの絵に、グロテスクな怪物はほとんど出てきません。出てくるのは、リンゴ、帽子、窓、雲、石といった、ごく身近なものばかりです。ただしその大きさ・場所・組み合わせが、少しだけ狂っている。部屋いっぱいに巨大なリンゴが詰まっていたり、紳士の顔がリンゴで隠されていたり、巨大な岩が空に浮かんでいたり。
怖いのは、それがきわめて写実的に、落ち着いた筆致で描かれていることです。ありえない光景が、まるで写真のような確かさで存在している。だからこそ、見る人の「現実はこうであるはず」という感覚が、静かに足元から崩れていきます。
3. 《光の帝国》——昼と夜が、同じ画面にある
空は明るい昼の青空に白い雲。ところがその下の家並みは、すっかり夜の闇に沈み、街灯と窓の明かりがともっています。《光の帝国》は、昼と夜という決して同居しないはずの二つを、一枚の絵の中で違和感なく成立させた作品です。じっと見ていると、どこがおかしいのか分からなくなってくる。この、静かな不穏さがマグリットの真骨頂です。
シュルレアリスムのなかの、マグリットの立ち位置
シュルレアリスムは、理性の抑えを外して、夢や無意識の世界を表そうとした運動です。同じくシュルレアリスムを代表するダリが、溶ける時計のように奇怪で夢めいた形そのものを生み出したのに対し、マグリットは形をゆがめません。ものはあくまで正確に、平然と描く。ずらすのは組み合わせと意味のほうです。
この「考えさせる」方向性は、既製品の便器を作品として提示し「芸術とは何か」を問うたデュシャンとも響き合います。手わざの見事さではなく、アイデアと問いが作品の中心にある。この系譜は、のちのコンセプチュアルアートやポップアート、広告表現にまで広く影響を与えました。マグリットの図像が、今もレコードジャケットや広告に繰り返し引用されるのは、その発想が古びていない証拠です。
「わからない」を面白がると、世界が広がる
マグリットの絵に、すっきりした正解はありません。本人も、自作について過度な意味づけを嫌い、「見えるものが、隠されたものを呼び起こす」といった言い方をしています。
だからこそ、急いで答えを出さず、「なぜこの組み合わせなのか」と考える時間そのものが楽しいのだと思います。そして観終わったあと、ふと自分の部屋のリンゴや窓が、少し違って見える瞬間が訪れる。観る前と観た後で、世界の見え方が変わる——筆者にとって「観てよかった」と思えるのは、まさにそういう作品です。
美術史・美術検定での位置づけ
マグリットは、ダリと並ぶシュルレアリスムの代表的画家として、美術検定でも西洋美術史の重要人物です。「シュルレアリスム」「《イメージの裏切り》」「デペイズマン(ものを本来の文脈から引き離して置くこと)」といったキーワードは、あわせて押さえておきたいところ。同じシュルレアリスムでも、ダリの「形の奇想」とマグリットの「意味のずらし」は方向が違う——この違いを知ると、20世紀美術の見取り図がすっきりします。
実物を観るには
マグリットの作品は、故郷ベルギーのブリュッセルにあるマグリット美術館に多く集まっているほか、ニューヨーク近代美術館(MoMA)など各地の近現代美術館に所蔵されています。日本でも、これまで大規模なマグリット展が開かれてきましたし、シュルレアリスムをテーマにした企画展で作品に出会えることもあります。
マグリットの絵は、図版で見ると「アイデアの面白さ」ばかりが際立ちますが、実物の前に立つと、意外なほど静かで、丁寧な絵肌をしていることに驚きます。奇抜な着想を、あくまで淡々と描き切っている。その落ち着きこそが、あの不穏さの源だと分かります。来日展の情報は、こまめに追っておく価値があります。
学びの記録を残すと、次につながる
実物を観るのはもちろん、「この画家について何を知ったか」を記録しておくことも、立派な美術体験の蓄積です。とくに現代美術は、背景を知ってから観ると面白さがまるで変わります。作品の前で何を感じ、何を考えたかを残しておくと、その”世界観が変わった瞬間”が自分の財産になっていきます。
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