カンディンスキーとは|「何も描かれていない絵」を最初に描いた抽象絵画の父

何が描いてあるのか、まったく分からない絵

色の帯が交差し、丸や三角が浮かび、鋭い線が走る。ワシリー・カンディンスキーの絵の前に立つと、多くの人はこう思うはずです——これは何を描いた絵なのだろう、と。

答えは、拍子抜けするほど単純です。何も描いていない。りんごでも風景でも人物でもなく、色と形そのものが主役の絵。カンディンスキーは、美術の歴史ではじめて本格的に「対象を描かない絵」を成立させた画家、いわゆる抽象絵画の創始者の一人とされています。

筆者は美術を学び直しているのですが、いちばん面白いと感じるのは、それまでの常識をひっくり返してしまう作品です。西洋美術の歴史は、いわば革命の連続でした。神の世界を描くのが当然だった時代に人間の暮らしが描かれ、写実こそ絵だという時代に内面が描かれた。そしてカンディンスキーは、「絵とは何かを写すものだ」という、最後まで残っていた大前提を外してしまいました。この記事では、その飛躍を、実物を観る前の予習として読み解いてみます。

ワシリー・カンディンスキーとは(基本情報)

  • 生没年:1866〜1944年(ロシア出身、のちドイツ・フランスで活動)
  • 位置づけ:抽象絵画の創始者の一人。「抽象絵画の父」とも呼ばれる
  • 経歴:法律と経済を学び、大学で教える道もあったが、30歳で画家を志す
  • 著作:『芸術における精神的なもの』(絵画理論の古典)
  • 代表作:《コンポジション》連作、《即興》連作など

面白いのは、その経歴です。カンディンスキーはもともと法律と経済の研究者で、大学から教授職の話が来るほどでした。それを蹴って、30歳を目前にミュンヘンへ渡り、絵の勉強を始めます。この理屈で物事を考える人という出発点が、後に「なぜ絵は何かを描かねばならないのか」という問いへ向かわせることになります。

きっかけは、横倒しになった自分の絵

カンディンスキーが抽象へ向かう転機として、よく語られる有名なエピソードがあります。

ある夕暮れ、アトリエに戻った彼は、名状しがたい美しさを放つ一枚の絵を目にします。何が描かれているのかは分からない。ただ色と形が輝いている。近づいてみると、それは横倒しに置かれた自分自身の絵でした。

ここで彼は気づきます。何が描かれているか分からなかったからこそ、色と形の美しさが純粋に立ち上がっていたのだ、と。「対象」は、絵の美しさにとって必ずしも必要ではない。むしろ邪魔をしているのかもしれない——そう考えたとき、抽象絵画への扉が開きました。

もちろん、この逸話だけで抽象が生まれたわけではありません。当時、写真の普及によって「そっくりに描く」ことの価値は揺らいでいましたし、ピカソが形を解体し、マティスが色を解放していた時代でもあります。カンディンスキーは、その流れの先端をさらに一歩踏み越えたのです。

見どころ

1. 色と形に「音楽」を聴く

カンディンスキーを理解する鍵が、音楽です。彼は音楽をこよなく愛し、作曲家シェーンベルクの前衛的な音楽に強い衝撃を受けました。

ここで彼が考えたのは、こういうことです。音楽は、何かを写しません。ドの音は何かの絵ではない。それでも人の心を激しく動かします。ならば絵も、何かを写さずに、色と形だけで人の心を動かせるはずだ——。

実際カンディンスキーは、色に音を感じる感覚を持っていたと言われます。黄色は鋭いトランペット、青は深いチェロやオルガン、といった具合です。彼の作品に《コンポジション(構成)》《即興》といった音楽用語の題名が多いのは、そのためです。絵を「読む」のではなく「聴く」ように眺めると、あの画面がぐっと近づいてきます。

2. 《コンポジション》連作——画面という交響曲

代表作の《コンポジション》連作は、まさに交響曲のような大作です。初期のものにはまだ馬や山といった面影が残りますが、番号が進むにつれて対象は消え、色と線と形だけの世界になっていきます。

鋭い線が緊張を生み、円がやわらかく響き、色が重なって和音になる。何が描かれているかを探すのをやめ、画面のどこが強く、どこが静かかを感じ取るように見ると、リズムが立ち上がってきます。

3. 理論の人——バウハウスでの教育

カンディンスキーは、感覚だけの人ではありませんでした。『芸術における精神的なもの』をはじめとする著作で、色や形が人の心に与える作用を体系的に論じています。後年はドイツの造形学校バウハウスで教鞭をとり、点・線・面といった造形の基本要素を理論として教えました。

感じたことを、理屈として言葉にし、次の世代へ渡す。もとが研究者だっただけあって、この体系化の力が抜群でした。抽象という発想が一人の思いつきで終わらず、20世紀デザインの土台にまでなったのは、この理論があったからです。

「わからない」を面白がると、見え方が変わる

抽象絵画は「意味が分からない」と敬遠されがちです。けれど、そもそも作者が「意味を描いていない」のですから、探しても見つからないのは当然です。

だからこそ、正解探しをやめてしまうのが近道だと思います。この色は心地よいか、ざわつくか。この線は速いか、遅いか。音楽を聴くときに歌詞の意味だけを追わないのと同じで、まずは画面から受ける感覚を味わう。すると不思議と、抽象画がぐっと身近になります。

そして歴史に残る作品は、テキトーに描かれているように見えて、その裏では緻密な思考に支えられています。カンディンスキーは、まさにその典型でした。「なぜこれが評価されるのか」を考えること自体が、この時代の絵の楽しみ方です。

美術史・美術検定での位置づけ

カンディンスキーは、20世紀美術の抽象絵画を代表する画家として、美術検定でも西洋美術史の重要人物です。「抽象絵画」「《コンポジション》」「バウハウス」「青騎士(ミュンヘンで結成した芸術家グループ)」といったキーワードは押さえておきたいところ。

あわせて、同じ抽象でも方向が異なるモンドリアン(垂直と水平の格子による幾何学的抽象)と対比すると、20世紀抽象の広がりがつかめます。カンディンスキーが音楽的で情熱的な抽象なら、モンドリアンは秩序と静けさの抽象です。

実物を観るには

カンディンスキーの作品は、ミュンヘンのレンバッハハウス美術館、パリのポンピドゥー・センター、ニューヨークのグッゲンハイム美術館などに数多く所蔵されています。日本でも、20世紀美術やバウハウスをテーマにした展覧会で作品に出会える機会があります。

抽象画こそ、実物を観る意味が大きい作品です。図版では平坦に見えてしまう画面も、実物では絵の具の厚みや筆の勢い、色の微妙な重なりが見えてきます。何より、大きな画面の前に立ったときの身体ごと包まれる感覚は、印刷では絶対に再現できません。来日展の情報は、こまめに追っておく価値があります。

学びの記録を残すと、次につながる

実物を観るのはもちろん、「この画家について何を知ったか」を記録しておくことも、立派な美術体験の蓄積です。とくに抽象絵画は、作品の前で何を感じたかを言葉にしておくと、次に別の抽象画を観たときの手がかりになります。

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